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YOUR WORDS ~摂理の御言葉~

このサイトはキリスト教系新興宗教「摂理」に関わった方向けの情報系サイトです。 主に摂理の根っこである「御言葉」やそこでの文化についてあげていきます。

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天の裁きが批判されるわけ

今回の震災の映像はとても衝撃的なものでした。
そして多くの方々の日常が奪われてしまう様子によって
――事情は同じとは言えないものの―――
私は脱会当時の衝撃と混乱を思い出されました。
何かできることがあったとしても、
あまりの事態にまずは沈黙するしかありません。
そこで思うところを少しこの場に書き連ねようと思います。



人がどうしようもない災害などにあうと、
そこに意味を見出そうとします。
防災の意識、命の儚さ、人との結びつきの大切さetc...


でもそれを個人や組織の正しさに結びつけた発言は非難を浴びています。
発言者にとっては、同じように自分なりの意味を
見出しただけのように感じるかもしれません。
なぜ同じように思ったことを言ったのに、
ある人たちは非難を浴びてしまうのでしょうか。


そのヒントとしてマタイ5:37にある以下の聖句が思い浮かびました。


あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。
それ以上に出ることは、悪から来るのである。



この聖句は「いっさい誓ってはならない」と
強い論調で諭された後に語られています。
文脈を辿ると、人の限界を悟った上で語られたことが分かります。


人はある事実を認識すると、
自分自身の考え方などに照らし合わせ、
行動へと繋げていきます。
しかし人間は不完全な存在ですから、
行動は正しい道をはずれ、修正を余儀なくされます。
経験を積むほどそのことを悟り、分をわきまえるようにもなりますが、
言い逃れもうまくなっていきます。


聖書が書かれた当時も言い逃れを用意した誓いが立てられ、
そういう神様への純粋さを欠いた行動を戒める意味が
この箇所に込められているそうです。
どんなに真剣に誓いを立てても、
人は過ちを犯すものだと解釈することもできます。
神様の前で純粋であるためには、
ただ「しかり、しかり、否、否」というべきだと聖書は語ります。


摂理も信仰生活で決意を固めることばかりが強調されますが、
一方で間違えることを恐れている節があります。
壮大な言葉を並べながら、
現実にそぐわない部分ではうまく逃れられるよう道をつくっています。
そしてそれと同じ姿勢で裁きの言葉を語り、
人の心にはあまり触れないまま、
信仰の自由で押し通してしまいます。
個人の意思に反した組織の行動に戸惑いを感じるメンバーは、
決して少なくないはずです。
だからメンバーは懸命に摂理が正しいものだと証明しようと努力しますが、
摂理全体では純粋な心を示すことができていません。


では純粋な心とはどんなものでしょうか。
それを今回の震災で言うならば、
まず最初にただあったことを受け入れ、
被災した人達に寄り添うことだと私は信じます。
人の死の意味を無理につくろうとしてはいけません。
それは非常に単純ですが、とても難しいことです。


報道や著名人による意味づけは
あくまで社会的な産物と捉えるべきだと思います。
人を慰めるための意味づけも同様です。
多くの場合、その初めにはその人なりの意味づけを超えた
ただ人の死を悼む心があるはずです。


宗教はどうしても社会的な意味づけを先決するため、
その意味づけの枠から外れた人を傷つけてしまうことがあります。
もちろん仕方ない面もありますが、
それではすべての羊の牧者になることはできません。
人が過ちを犯す存在であることを忘れ、
自分の主張ばかりが前面に出てしまうとき、
「悪から来ること」を語ることになります。
信仰者としては、このことを忘れるべきではないのではないでしょうか。


もし今の摂理が純粋な心で成り立っているとしたら、
メンバーたちは今の摂理の御言葉に対して
「しかり、しかり、否、否」とは語れかったことでしょう。
普段は罪をもった人間かもしれませんが、
世間では今回の震災によって多くの人達が純粋な心でお祈りしています。
無神論者の祈りに耳を傾けるのも、
神様の新しい面を知るきっかけになるはずです。



最後までお読みいただきありがとうございました。
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