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親鸞会に見るリーダー達の沈黙の先
社会から摂理のリーダーたちと話す機会はまずありません。
大々的にマスコミで報じられてもここまで沈黙を保つというのは、
ある意味では彼らの強い意志を感じます。
一方で、一般メンバーたちは、社会と摂理とのあいだで
リーダーたちの意見を切実に求める時があります。
もちろんリーダーはメンバー間では相談を受けますし、
メンバーの家族にも「言いたい部分は」説明するそうです。
でもリーダーが外部の人間と本音で話したというのを耳にしたことはありません。
話を突き詰めていく前に、メンバー個人の責任に委ねてしまい、
リーダーは前に出てきてくれなくなることも多いようです。
根本の意見が異なる人同士だと、対話にはどうしても時間がかかります。
摂理人にはその時間はないのでしょうか。
摂理の救いの歴史は、心情の問題と両立できないことが多いです。
このように社会と板挟みになって苦しむのは一般メンバーなのですが、
面倒を避けて隠れてしまうリーダーたちをわかりやすい表現をしているサイトがありました。
安心問答(浄土真宗の信心について)
「親鸞会の講師が教義批判や体質批判に正面から反論しないたった1つの理由」
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100714/1279093655
「批判に正面から答えないたった一つの理由とは、彼らは(高森会長)サポーターであって(チーム親鸞会)プレイヤーではないからです。」
確かに、批判というボールに立ち向かうのをプレーヤーとするなら、
リーダーたちもサポーターといえるかもしれません。
サポーターも趣味の時間ではプレーヤーになることができます。
代表のユニフォームを着て、
お気に入りのプレーヤーになりきって好きなようにボールをけることはできます。
ただしプロとしてスタジアムでプレイすることはできず、
サッカー場を借りて知り合いとプレイして、せいぜいちょっとした試合に参加する程度でしょう。
「安心問答」では以下のように続きます。
「サッカーならばそれでいいのですが、自らが講師または布教使を名乗りながら、教義批判をされると、サポーター(会長の応援団)となり、自らがプレーヤーとなって批判に立ち向かうという事はありません。最後は、会長が出てきて批判に対抗してくれるということだと思います。親鸞会は、高森会長の一人チームで、他の講師は何人いても自分自身はサポーターだと言い聞かせています。
…
「命がけ」という言葉を、親鸞会の講師はよく使いますが、それは「命がけの応援(サポーターとしての活動)」であって、「命がけの布教(プレーヤーとしての活動)」ではないのです。」
リーダーたちは何かしらで優秀な人ばかりです。
けれど脱会してから私には一般メンバーとそれほど違いがない気がしていました。
それがなぜかというと、リーダーたちも板挟みで苦しむ一人の人間にすぎないからです。
だからこそ批判が自分に向くことを予想できていても、沈黙を守ってしまうのでしょう。
「命がけ」というのも、そういうものだと教えられてきた彼らの役割を順守した結果なのでしょう。
私はそれでも仕方ないんじゃないかと思うこともあります。
ただし、それならば「命がけ」の重大責任を負うべきではなく、負わせるべきでもなく、
分を理解する必要があります。
それと社会と共存するつもりならば、どうしても批判と正面から向き合う人が必要です。
カルト視されてふてくされることなく、誠意を尽くす、
泥にまみれることを厭わない才能がある人をたてる必要があります。
プレーヤーがいなければ試合は成り立ちません。
体をはってゴールを目指す人がいるから、サポーターは湧き立つのです。
摂理のプレーヤーは誰なのでしょうか。
大々的にマスコミで報じられてもここまで沈黙を保つというのは、
ある意味では彼らの強い意志を感じます。
一方で、一般メンバーたちは、社会と摂理とのあいだで
リーダーたちの意見を切実に求める時があります。
もちろんリーダーはメンバー間では相談を受けますし、
メンバーの家族にも「言いたい部分は」説明するそうです。
でもリーダーが外部の人間と本音で話したというのを耳にしたことはありません。
話を突き詰めていく前に、メンバー個人の責任に委ねてしまい、
リーダーは前に出てきてくれなくなることも多いようです。
根本の意見が異なる人同士だと、対話にはどうしても時間がかかります。
摂理人にはその時間はないのでしょうか。
摂理の救いの歴史は、心情の問題と両立できないことが多いです。
このように社会と板挟みになって苦しむのは一般メンバーなのですが、
面倒を避けて隠れてしまうリーダーたちをわかりやすい表現をしているサイトがありました。
安心問答(浄土真宗の信心について)
「親鸞会の講師が教義批判や体質批判に正面から反論しないたった1つの理由」
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100714/1279093655
「批判に正面から答えないたった一つの理由とは、彼らは(高森会長)サポーターであって(チーム親鸞会)プレイヤーではないからです。」
確かに、批判というボールに立ち向かうのをプレーヤーとするなら、
リーダーたちもサポーターといえるかもしれません。
サポーターも趣味の時間ではプレーヤーになることができます。
代表のユニフォームを着て、
お気に入りのプレーヤーになりきって好きなようにボールをけることはできます。
ただしプロとしてスタジアムでプレイすることはできず、
サッカー場を借りて知り合いとプレイして、せいぜいちょっとした試合に参加する程度でしょう。
「安心問答」では以下のように続きます。
「サッカーならばそれでいいのですが、自らが講師または布教使を名乗りながら、教義批判をされると、サポーター(会長の応援団)となり、自らがプレーヤーとなって批判に立ち向かうという事はありません。最後は、会長が出てきて批判に対抗してくれるということだと思います。親鸞会は、高森会長の一人チームで、他の講師は何人いても自分自身はサポーターだと言い聞かせています。
…
「命がけ」という言葉を、親鸞会の講師はよく使いますが、それは「命がけの応援(サポーターとしての活動)」であって、「命がけの布教(プレーヤーとしての活動)」ではないのです。」
リーダーたちは何かしらで優秀な人ばかりです。
けれど脱会してから私には一般メンバーとそれほど違いがない気がしていました。
それがなぜかというと、リーダーたちも板挟みで苦しむ一人の人間にすぎないからです。
だからこそ批判が自分に向くことを予想できていても、沈黙を守ってしまうのでしょう。
「命がけ」というのも、そういうものだと教えられてきた彼らの役割を順守した結果なのでしょう。
私はそれでも仕方ないんじゃないかと思うこともあります。
ただし、それならば「命がけ」の重大責任を負うべきではなく、負わせるべきでもなく、
分を理解する必要があります。
それと社会と共存するつもりならば、どうしても批判と正面から向き合う人が必要です。
カルト視されてふてくされることなく、誠意を尽くす、
泥にまみれることを厭わない才能がある人をたてる必要があります。
プレーヤーがいなければ試合は成り立ちません。
体をはってゴールを目指す人がいるから、サポーターは湧き立つのです。
摂理のプレーヤーは誰なのでしょうか。
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拉致監禁事件に対して不起訴相当との判断
(参照URL:やや日刊カルト新聞)
http://dailycult.blogspot.com/2010/10/blog-post_1156.html#comments
告訴していたのは統一教会信者の後藤徹氏。
12年もの間家族による監禁を受けた上、
暴行を受けたり満足な食事も与えられなかったり甚大な被害を受けたと主張して
家族と監禁を指示したとする二名を相手どって告訴していました。
監禁から逃走したという直後の後藤氏の姿は異常にやせ細っており、
その写真付きのパンフレットは人権侵害の訴えのもと日本だけでなく海外でも配布され、
統一教会に反対する牧師による拉致被害者の象徴ともいえる人物となっています。
その彼に対して検察審査会が不起訴の判断を下したことは
統一教会の主張の信憑性を改めて問う事態につながっています。
統一教会信徒(内部用語で「食口【しっく】)のブログで反応を見てみると、
食口たちはこの審議結果を受けても宗教迫害との主張を変えておらず、
「屈してはならない」というブログも見られます。
しかし参照として添付した「やや日刊カルト新聞」に載せられた議決文書を読む限り、
捜査で明らかになった内容は屈さずに闘い続けるようなものではありません。
さすがに統一教会信者への家族による説得は迫害というカテゴリーに属さないということを
この議決が明らかとしたと考えてもいいのではないかと思います。
けれど議決文書では後藤徹氏の不誠実さを表す内容もありますし、
何より統一教会が正当性を強く打ち出せる唯一の事件だけに
これから海外への訴えをさらに強めていくものと予測されます。
私は食口たちが監禁への被害を訴え、
それでも彼らの家族がどうしても対話の機会を持とうと奮闘する事態も
非常に悲しい出来事だと考えていますが、
せめて家族の意思を宗教迫害だと断じてしまう態度だけでも改められないものでしょうか。
家族の想いを表す言葉として以下のブログを紹介致します。
統一教会信者を持つご家族であるkokoroさんのブログ「北風と太陽」です。
http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2010/10/post_7cf8.html
kokoroさんは被害を訴えながらも、
それに終始せず食口への気遣いも示されていて、深い思慮を感じます。
こうした態度の人間が宗教差別のためにここまで尽力するかをまず考えるべきだと思います。
信仰を守ろうとするあまり、家族を見る目まで誤っているようでは
統一教会の標榜する家庭平和も実現を疑問視されてしまうことでしょう。
家族がどうしても深い対話を望むのはなぜか。
改めて考え直す機会になることを願います。
http://dailycult.blogspot.com/2010/10/blog-post_1156.html#comments
告訴していたのは統一教会信者の後藤徹氏。
12年もの間家族による監禁を受けた上、
暴行を受けたり満足な食事も与えられなかったり甚大な被害を受けたと主張して
家族と監禁を指示したとする二名を相手どって告訴していました。
監禁から逃走したという直後の後藤氏の姿は異常にやせ細っており、
その写真付きのパンフレットは人権侵害の訴えのもと日本だけでなく海外でも配布され、
統一教会に反対する牧師による拉致被害者の象徴ともいえる人物となっています。
その彼に対して検察審査会が不起訴の判断を下したことは
統一教会の主張の信憑性を改めて問う事態につながっています。
統一教会信徒(内部用語で「食口【しっく】)のブログで反応を見てみると、
食口たちはこの審議結果を受けても宗教迫害との主張を変えておらず、
「屈してはならない」というブログも見られます。
しかし参照として添付した「やや日刊カルト新聞」に載せられた議決文書を読む限り、
捜査で明らかになった内容は屈さずに闘い続けるようなものではありません。
さすがに統一教会信者への家族による説得は迫害というカテゴリーに属さないということを
この議決が明らかとしたと考えてもいいのではないかと思います。
けれど議決文書では後藤徹氏の不誠実さを表す内容もありますし、
何より統一教会が正当性を強く打ち出せる唯一の事件だけに
これから海外への訴えをさらに強めていくものと予測されます。
私は食口たちが監禁への被害を訴え、
それでも彼らの家族がどうしても対話の機会を持とうと奮闘する事態も
非常に悲しい出来事だと考えていますが、
せめて家族の意思を宗教迫害だと断じてしまう態度だけでも改められないものでしょうか。
家族の想いを表す言葉として以下のブログを紹介致します。
統一教会信者を持つご家族であるkokoroさんのブログ「北風と太陽」です。
http://kokoro.mo-blog.jp/weblog/2010/10/post_7cf8.html
kokoroさんは被害を訴えながらも、
それに終始せず食口への気遣いも示されていて、深い思慮を感じます。
こうした態度の人間が宗教差別のためにここまで尽力するかをまず考えるべきだと思います。
信仰を守ろうとするあまり、家族を見る目まで誤っているようでは
統一教会の標榜する家庭平和も実現を疑問視されてしまうことでしょう。
家族がどうしても深い対話を望むのはなぜか。
改めて考え直す機会になることを願います。
- [No Tag]
はじめまして。コメントいただきありがとうございます。
食口の二世問題も深刻ですね。
子供は純粋に信じてしまいますから、
エリート意識を刷り込まれてしまうと後々までそれに即した考え方が残ってしまいます。
そのことについても、エリート意識を肯定する人、部分的に肯定する人、
仕えるべき立場なのだからと否定する人と様々で、単なる個性だと言ってしまうと思われますが、
いずれにせよ組織としてエリート意識を植え込むことを
個性の問題としてしまうことに問題があると考えられます。
一生が問われるのは子供たちなのですから、
横道に反れないよう教育方針を一つにまとめなければ「統一した」とは言えません。
教会を否定する人をサタンとひとくくりにすることも、
個人の性格にサタンがつけこむとか、人間をサタンというのではないと言い訳するのも意味が見出せません。
その教えはいずれにせよ傷を受けた人の声もまとめて打ち消してしまいます。
悪いことには何がなぜ悪いかを明確にして訴えればいいだけのことです。
今回の一件で家族の反対をすべて宗教迫害と括ってしまうことで
家族の声をも切り捨ててしまっていることに気付いてほしいものです。